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ペットボトルは近未来の夢をみるか

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新しくなったDAKARAのペットボトルのデザインが、あまりにも先進的でクールなので、さかさにして、気泡の動きで遊んだり、ボトルの表面を指でなぞったり、ちょっと童心にかえってしまった。

ラウンディッシュだけどスクウェア

ずっと触わっていたくなる、というのは、よいプロダクツのひとつの条件ではないかとおもう。クルマや、グラビアのなかの美女などは、むやみやたらに触ることもできないので、それこそなめるようにして眺めているほかないのだが、やはり、それが手のひらにおさまるくらいのサイズのものならば、手のひらのなかでころがして、質感や温度をずっとあじわっていたいとおもう。ぎゃくにいうと、そのような感情を呼び起こすことのできるものこそが、ひいては所有欲をも満たすことができるプロダクツなのではないか。

まさか、ありふれたペットボトルにそんな感情を抱くことになるとは考えたこともなかったけれども、新しくなったDAKARAのペットボトルのデザインが、あまりにも先進的でクールなので、さかさにして、気泡の動きで遊んだり、ボトルの表面を指でなぞったり、ちょっと童心にかえってしまった。

内容量はいままでとかわらない500mlなのだが、そのカタチはカドのとれた四角錐といえばわかりやすいか。やや細身でスレンダーになったボトルデザインは、ヘンなシボ(表面の凹凸)がないためつるりとしたテクスチュアが特徴的だ。ショルダーラインのカーブもとてもセクシーだ。

01このラウンディッシュなスクウェアというカタチは、手のひらになじむ感覚――触感覚の「生体適合性」のようなもの――と、マッシブな存在感というものをうまく両立させることに成功している。あのiPodにも通じるものだ。

iPodのデザインも、ひとの触覚にたいするつよい訴求力をもつ。リモートコントローラーを介せずに、直接に本体を手のひらのなかにおさめて操作させるというスタイルは、ディスクマンでは大きすぎて不可能だし、ポータビリティへと方向性を振りすぎたMP3オーディオでもやはり不可能だ。そこには、いやがおうでもあのメタルの触感へと身体をアクセスさせようというきわめて明確な意思がある。

スケルトンの必要性

数あるプロダクツのなかでも、ペットボトルはどちらかというと、ひじょうに醜い部類に位置するはずだ。図体がでかく、やたらと場所をとり、必要以上の存在感を発する。そのくせ、開栓して内容物が減ってくるにつれて増してくる、いかにもゴミ然としたその風貌だ。古いコカコーラの瓶のように、カラになった容器を飾っておいても絵になる、というような美的な要素はまったく欠如してしまっている。  そこにいくと、このきわめてスレンダーなボトル・デザインは、ペットボトルのいかにもゴミ然とした存在感をやわらげるという意味でもひじょうに成功している。

03家具やガジェットのなかで、スケルトン・デザインがもてはやされるようになった背景には、わたしたちの身の回りにあまりに多くのモノがあふれはじめたために、それぞれのプロダクツのもつ存在感をできるだけやわらげようという逆向きのちからがはたらいていたことは論をまたないが、これは、かつてのテレビやラジオが本木目や緞帳で彩られていたことをかんがえればかんたんに理解できる。その意味でも、このペットボトル・デザインもスケルトン・デザインの延長上に位置づけることができるとおもう。

内容物がやや白濁した透明な液体であるところも、非常に近未来的だ。あるいは、液晶(liquid crystal)は、まいにちわたしたちが接しているわりには、その実体を見る機会もさわる機会もない。だが、もし見えるとするならば、こういう色をして、こんな丸みを帯びたスクウェアな容器に入っているのではないか、とおもう。また、「21世紀の真空管」というものをカタチにしたならば、きっとこんなカタチになるはずだ。

また、ふつうのペットボトルがずらっと冷蔵庫に並んでいる光景はとても寒々しいが、この乳白色で透明な液体で満たされたペットボトルがならんでいる光景を想像してみると、とてもドリーミーで、たとえるならばS・キューブリックの近未来映画の一場面のようだ。 ■

(この記事は2005年5月に書かれたものです)

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