祭りは、多かれ少なかれ、わたしたちを取り巻く社会の縮図を単純化した形で私たちの目の前に現出させる構造を有している。これを目の当たりにすることは、ときに人の気持ちを絶望へと追いやり、ときには死へと向かわせる作用をもちうる。では、あの勇壮さで知られる祭り「だんじり」が表象する「社会の縮図」とは一体何か。

257744056_163祭りが表現する世界の縮図

知っている顔が輪のなかでおどっている。前に進み、後ろに戻りを繰り返しながら暗闇の中から現われたその顔は、たゆたうような動きをくりかえしながら、また暗闇へと消えていく。

この盆踊りという祭りは、ほかのどんな仏教行事よりも、無常観や、輪廻転生の世界観をみごとに表現している。

257744056_203また、長良川の鵜飼いを、かの松尾芭蕉は「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」と詠んだ。芭蕉は、鵜飼に操られ、魚をくちばしで捕らえたと思えばすぐにそれを吐き出させられるこっけいな鵜のすがたに、人間社会の一縮図とでもいうべきもの悲しさを見ている。

祭りというものは、多かれ少なかれ、人間の一生やわたしたちの生きている社会の一場面、あるいは世界すべての縮図ともいえる構造を内部に有しているとおもう。

しかもこれらの構造は、祭りや踊りの動作として極端に単純化されたかたちで表象される。すると人は、日常生活に追われるうちにすっかり忘れてしまっている、じぶんの生きている世界の構図を俯瞰的な視点で目の当たりにすることになる。蟻の視点ではなく、鳥の視点だといってもよい。

257744056_75きっと、祭りというものがもち合わせるもの悲しさというのは、この鳥瞰的な視点によって、たとえ模式的なかたちであれ、自分の生きている世界の縮図、あるいは自分の人生の構造について目の当たりにしてしまった一種の不幸がかもしだすのではないかとおもう。

自分の住んでいる世界や人生のすべてがわかってしまうということは、(たとえそれがわかったつもりにすぎなかったとしても)人の気持ちを絶望へと追いやり、ときには死へと向かわせる作用をもちうるからだ。

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さて、9月ごろのことだったか。堺に住む友人K氏から、冗談半分で「10月にだんじりあんねんけど来おへん?」と誘われた。けっきょくいつの間にか祭りは終わっていたのだが、ご存じの通り、だんじりはたいへん勇壮ですさまじい祭りだ。

まず、その圧倒的な猪突猛進ぶりだ。

男たちが「だんじり」とよばれる山車を無謀とも思えるスピードで狭い路地を引き回したり、それ同士をぶつけ合って勝負したりする。だんじりの転倒や衝突はあたりまえだ。電信柱を倒したり、民家に突っ込むこともざらだし、毎年、何人も死ぬ。

関東からわざわざ参戦したとなれば一生ハナシのネタになりそうなものである。名残り惜しさにネットでだんじりを検索してみると、どういうわけかyoutubeにけっこうな数の動画がアップされている。

261625016_215じっさいに映像で見るのははじめてだったのだが、たちまち目が釘付けになった。しばらく見ていたら、やはりそこにひとつの世界の縮図が見えてしまい、とてつもないもの悲しさにおそわれた。

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まず、その圧倒的な猪突猛進ぶりだ。盆踊りとはあまりにも対照的な、直線的な動きである。あらゆる社会や組織がときとして持ちうる破滅性を、ほかの何よりもみごとに表現している。

誰もがもつ破滅的な行動への憧れ

たとえばそれは、身もフタもない例えかたをすれば、ファシズムに傾倒する国家のようでもあり、新自由主義や資本主義の原則に忠実に従って盲進する企業のようでもあり、テロへと突き進む宗教的または思想的団体のようでもある…。

261625016_56だんじりの周りに蟻のように群がる無数の男たちは、そういった社会や組織や団体に属する兵隊たち、あるいは会社員たち、信者たちだ。このだんじりの場においては、おのおのの個性や人格はまったく隠蔽されてしまっている。ひとりやふたり程度が転ぼうとも、置いてけぼりにされようとも、大勢にはまったく影響もなく、そして落伍者が省みられることはない。

だんじりの屋根でうちわをふるいながら指揮をとる、多分選ばれたであろう男たちは、さしずめ指導者、資本家、教祖たち…といったところか。そこに登るためには頭ひとつ抜きん出た何かを必要とするのかもしれないが、映像で見るぶんにはだんじりの周りに群がる無数の男たちとたいして差はない。

261625016_145むしろ、だんじりを動かすという根本的な動作にまったく関わっていないだけによりどころがなく、そのたたずまいはよわよわしく目に映る。民家に衝突しただんじりの屋根でうちわを振り回して怒鳴り散らすその姿はあまりにも無力すぎて、滑稽ですらある。また、ひとたびだんじりから転落すれば、骨が砕け、鮮血が噴き出すという点においては、だんじりの周りに群がる無数の男たちと何ら変わりはない。

そして何といってももの悲しいのは、だんじりのてっぺんに立つ彼らにさえ、祭りのイニシアチブはないかのように見えることだ。

だんじりそのものが人格を持ち、その見えざる意思に沿って、すべての男たちが踊らされているかのように見えること。この祭りのもつもの悲しさは、ここに尽きるのではないか。

(写真左から=バランスを崩し転倒するだんじり。youtube「’97- 泉州だんじり祭り 事故集」より)

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271191911_108誰も望まざる…とは断じていわないが、多くの人びとが持つ、さまざまな方向に拡散する意思や思惑が集合したときに、その総体が思いもよらぬ方向へのベクトルを持つことはよくある。そして、それがしばしば〈破滅性〉を帯びることについては、ここで歴史上の例を挙げるまでもない。

だんじりが人びとに愛されるのは、誰もがそうした破滅的な行動への願望を持っており、さらに語弊を恐れずにいえば、その一員となって身を委ね、ときには命を失うことへの願望をも潜在的に抱いていることの証左ではないだろうか。

そして、たとえば天皇ヒロヒト、ヒトラー、麻原彰晃らがこのだんじりを見たならば、彼らはいったいなにを思っただろうか。そんなことが頭をよぎった。

(2007年2月)